『少し止まる、歩く』
それは、知らないことを知る瞬間
知ることは楽しい
子どもの頃の好奇心はどこへ?
子どもの頃、道端で出会った昆虫やどんぐり、変わった形の葉っぱを見つけ、何度となく足を止め、じっと見つめ、あるいは追いかけ、ついには大人から「もう行くよー」と急かされる。このような経験は誰もがしてきたことだと思います。あれほど夢中になっていた自然なのに、大人になると興味が他に向いてしまうのか、知識を得て知ったつもりになってしまうのか、はたまた恥じらいを覚えてしまうのか、足を止める回数や時間が減ったという人は多いのではないでしょうか。
何かが違うけど何が違う?
自然というのは、四季を通して姿かたちを変えながら、大なり小なり私たちの身近な所に常に存在しています。
地面に落ちている木の実、草むらに潜むネズミ、上空を旋回する猛禽類、一つ一つは無関係のように見えて、全てに繋がりがあります。それぞれが違う色の糸で紡がれ一つの大きな織物となり、それが今あなた目の前に広がっています。漠然と見ていた景色の中にも色んな色の糸があり、立ち止まりよく観察することで気づき見えてくる世界があります。
専門的な知識は重要
そうした自然を理解するのに、一つ一つの動植物を見分けることができなければ全体を理解することに繋がりません。見分けることを専門的に識別と言いますが、その識別ができるというのは、他の物との違いに気づけるようになるということ。違いが分かれば、景色を見たとき、個別に見て全体に繋げることもできれば、その逆の全体を見たのち個別に見ることもできます。これができるようになると、自然観察が俄然楽しいものになります。
例えば、私たちの森にはヨーロッパトウヒが植えられているエリアがあり、その中にはコシアブラの幼木がびっしりと生えています。専門書には、コシアブラには耐陰性がありトドマツ(ヨーロッパトウヒ同様、常緑針葉樹)と混生すると書いてあります。専門書で得た知識があっても、識別ができなければ現地でそれを見ても針葉樹のあるただの風景ですし、ヨーロッパトウヒとコシアブラを識別する能力があっても、その知識がなければそこにあるのはヨーロッパトウヒとコシアブラという情報だけに過ぎません。それが見事に合わさったとき、今まで見ていた景色が一変し「あぁなるほど、そういうことか!」と膝を打つ喜びに代わります。この瞬間があるから、私は学び続けることを止められません。知らないことを知るというのは、それだけで楽しいものですが、それに留まらず、縦横無尽につながる自然のことを少しでも理解できるようになることは、自然の中に身を置く時の何にも代えがたい楽しみをもたらしてくれます。
専門的な知識は重要だが
ここまで書くと、識別や知識が何よりも大事だと主張しているように感じるかもしれませんが、それと同じくらい感じることも大事だと思っています。冒頭で書いた「何かに夢中になる」感性です。なんだろう?不思議だな?面白い!可愛い!綺麗だ!飛びつく理由は何でも良く、とにかくその人の中にある感性を大事に、そして、そこから伸びる知性も大事にしたいのです。
専門的かつ感性豊かに
理屈でガチガチに縛るのではなく、
かといって感じるままに伝えるのではなく、一本一本の糸を解きほぐすように自然を観て、それをまた紡ぐ、そんなガイドを心がけています。
あなたの「あっ、これ面白い!もっと知りたいかも!」を見出しに森に入ってみませんか?